悪(ワル)の華

ボードレールは、人間を『退屈』に住む『悪』だと思っていたようです。『悪』を詠えば、人間の本質に迫れました。 『悪』はまた、衝動的で扇動的で曖昧でした。 衝動的で扇動的で曖昧なものは、おもしろおかしく好き勝手に扱えました。 『悪』は、『滑稽』にも『美』にも『神』にさえなれました。 こうして人間は、『滑稽』や『美』や『神』に変えられました。 ボードレールのやったことは、それだけのことです。では、ボードレールの言葉遊びに浸りましょう。文中、極めて不道徳で不適切な単語や表現が使用されています。予めご了承ください。

89 白鳥        ヴィクトル・ユーゴーに捧げる

      Ⅰ

亡国の寡婦※1アンドロマックよ! 

滅びた故国のシモイス川を偲び、捕われ地の小川に伏し、

その水面を鏡とみなして、泣き崩れるその眼には、

膨れ上がる涙。涙滂沱と、偽のシモイス川に落ち……ってな伝説を、

 

出来たての※2カルーゼル広場を横切った時、

ふと思い出し、それが呼び水となったのか、次々に記憶が膨らんだ。

古き良きパリはもう無くなった……。(パリは人の心より早く変わる)

 

瞼を閉じれば思い出す、バラックの一群、

作りかけの柱頭の装飾と、積み重なった円柱、

生い茂った草、苔むしたブロック、

ガラス窓から見える未完成の内装。

 

ここにはかつて見世物小屋があった。

ある朝、仕事が始まりだす頃、冷たく澄んだ空の下、

ゴミ集めの荷車が、臭う埃を巻き上げる中を、

一羽の白鳥が、檻から逃げ出した。

 

この白鳥、水かきのついた足を、

乾いた敷石にこすりつけ、

ごつごつとした地面に、真っ白な翼を引きずって、

水の枯れたドブの傍らで、

 

イライラしながら汚泥を浴び、

嘴を開いて、生まれ故郷の美しい湖を思い出し、

「水。何時になったら雨となって降るのか。雷。何時になったら轟くのか」と叫んだ。

今も目の前に、あの白鳥の姿が、神話の一コマのように思い出せる。

 

あの白鳥は、オウィディウスが詠った※3人間のように、

憎々しく残酷なほど晴れ渡った青空に向かって、

幾度も幾度も、震える首に、飢えた嘴を伸ばし、

神を恨みなじっていた。

 

※1トロイヤの英雄ヘクトールの妻。ヘクトールが戦死し、トロイヤが陥落すると、アキレスの子ピュロスに捕らえられた。その折、近くのに流れる小川を、トロイヤのシモイス川に見立て、その岸辺に遺骸なきヘクトールの墓碑を建てた。ピュロスの死後は、ヘクトールの弟ヘメノスの妻となった。

 

※2ナポレオン三世のパリ改造計画によって、ルーブルの西側にあった地区の住民を立ち退かせて作られた広場。

 

※3オウィディウスの『変身物語』の中で、動物の中で人間だけが、天に顔を向けるように作られたとある。

 

      Ⅱ

日々、変わりゆくパリ。だがオレの心の中では何ひとつ変わってはいない!

新しい宮殿も、建築現場の足場も、石材も、

古い下町も。それらはみなオレにとっては、たとえ話だ。

想い出は変化せず、重く動かない。

 

こうしてルーブルを目の前にすると、またあの白鳥を思い出す。

狂ったような身振りで、滑稽で、

逃亡者のように、常に満たされず、

しかし崇高なあの姿を。そしてアンドロマック!

 

あんたをまた思い出してしまう。偉大な旦那の腕から滑り落ちて、

家畜のように、ピュロスのものとなり、

かりそめの亡夫の墓に、茫然と寄りかかり、

風向きが変われば、ヘメノスの妻となった、その移り身の早さよ!

 

あの肺を病んだ、瘦せっぽっちの黒人女を見てみろ。

ぬかるみの中で、血走った眼をむいて、

熱帯にすくすくと育つ椰子の木を、

城壁のように立ち込めた霧の中に探しているではないか!

 

二度と手に入らない大事なものを失った人間、

喉の渇きを涙で補おうとするみじめな人間、

苦悩さえ糧だと言い張る追い詰められた人間、

孤独な臨終間際の人間、彼らを思う。

 

オレは心の森の中で、

『思い出』と言う角笛を吹きながら、

無人島に忘れられた水夫、捕虜、流刑囚たちのことを思う……。

そして、これを読む、その他大勢であるアンタを思う……。