Ⅰ
子供はマンガや世界地図が大好きだ。
あたかも世界を飲み込んだ気持ちで見入っている。
世界は何てデカいのだろうと想像している。そして目を上げ、
記憶にある世界は何てちっぽけだったのだろうと、思い出す!
人は、生れ落ちたからには旅をする。
頭の中は熱い思いでいっぱいだ。
胸の中は、不安と呪われた希望で張り裂けそうだ。しかしとにかく、
波のリズムに乗って、無限の欲望を有限の海に浮かばせながら旅立つのだ。
ある者は惨めな祖国を捨てた。
またある者は故郷の恐怖から逃れた。
そしてまた別の者は、
悪い女の瞳の誘惑を避けようとした。そうなのだ、こうやって旅を進めたのだ。
夜空を羅針盤にして進んだのだ。しかしそれが仇となった。
結局、大空に飲み込まれてしまい、
方向を見失い、氷に噛みつかれ、太陽に焼かれた。
そして、口づけの痕は、ゆっくりと消えていった。
本物の旅人はこんなバカな旅はしない。
ただ旅立つことそのものに意義があると思っている。
心は風船のように軽く、目的など抱いていない。
そして、いつもいつもこう口にしている。「前に進もう、もっと前に!」
ヤツらの欲望は雲の形をしている。変幻自在だ。変わり続ける。
そして夢見るものはただ一つ、本能に寄り添う快楽だけだ。
まだ誰も味わったことのない快楽。
誰もその名前を知らない快楽。それが唯一の目的なのだ。
Ⅱ
よくよく考えてみたら、オレらはコマやボールが、
回ったり跳ねたりするのと、何も違いはしない。
寝ている時だって『好奇心』に苦しめられ変な夢を見る。
サディストの天使が、太陽を鞭打っているようだ。
人は、期待を抱きながら休息を求める。
ただそのために、狂ったように駆けずり回らなければならない。
目的地は動き回る。だから、どこにも無いと言えるし、
どこにでも転がっているとも言える。
オレらは、ユートピアを求める三本マストの帆船だ。
甲板(かんぱん)に声が響き渡る。「しっかり見張っていろ!」
見張り台から猛り狂ったような歓声が上がった。「愛が見えた……。栄光も……、幸福も……!」
見張りが口にした『愛』『栄光』『幸福』の島々は、黄金(エルドラ)郷(ド)だ。
早速、派手な酒盛りが始まった。
しかし朝日の輝きに見えてきたものは、暗礁だった。
だめだ! 近づくな! そっちは危ない!
誰かが叫んだ。
伝説の国を夢見た哀れな男どもよ!
アメリカをでっち上げた船乗りよ、泥酔した水夫たちよ!
蜃気楼がお前たちを絶望へと引きずり込もうとしているぞ。
身体をしっかり鎖に繋げろ! いや、いっそのこと海に飛び込め!
旅する人は、ぬかるみに足を捕われながら、
空を見上げて、輝く楽園を夢見ているだけなのだ。
魔法にかかったその眼は、あちこちに楽園を見つける。
しかしそこには、薄汚いボロ屋が並んでいるだけだ。
Ⅱ
旅してきた者よ! その海のようなお前らの眼の中に、
オレは麗しい物語を読み取った。出来る事なら、
もっと見せてくれ、お前らの豪奢な記憶を!
星のようにきらびやかな宝石の数々を!
オレらは日常と言う牢獄で味わっている退屈から逃げたいのだ!
それも、今すぐここから旅立ちたい。そして、
キャンバスのように真っ白で張り詰めたこの心に、お前らの思い出の地平線を額縁にして、
満足できる夢を思いっきり描きたいのだ。
さあ教えてくれ。いったい何を見て来たのだ!
Ⅲ
星を見たぜ。
波も見た。砂もだ。
思いもかけなかった混乱にも遭遇した。
しかし、あんたと同じように退屈だった。
紫色に染まった海の上の太陽を見た。
賑やかな都会に沈む夕陽も見た。
それらにこころ焦がされ、
空中に吸い込まれそうな思いもした。
繁華な都市と広大な景色も見たが、
雲が偶然に描き出す空の景色には敵わないことが分かった。
空の景色に、次々と好奇心が湧いた。だが、
かえって欲望を抑えられなくなった。
———好奇心が欲望を育てたのだ。
欲望は好奇心を養分にしてきた老木なのだ。
樹皮が厚く硬くなるほど、
末端の枝々は太陽に近づこうとした。
欲望よ、お前はいったいどこまで大きく成長したいのだ?
厚かましい奴め! ———そう言いながらもオレは、
何枚もの欲望の樹のスケッチを描き集めた。
手の届かないものは、無性にきれいに見えたからな。
それからオレが見たものは、
象牙の偶像。
光り輝く宝石を嵌め込んだ玉座。
その豪華さは、大富豪が腰を抜かすような代物だった。
もっと見たぞ。目を酔わせる様々な衣装。
歯と爪に色を塗った女たち。
蛇をまとわり付かせた大道芸人たち。
まあ、そんなところだ。
Ⅳ
もっと見ただろう? ほかに何を見た?
Ⅴ
以上だ。いちいち覚えていねぇよ!
ああそうだ、大事なことを言い忘れるところだった。
そう言やぁあ、あちこちで今も昔も変わらない、
罪の茶番劇をいやと言うほど見て来た。
女は卑しく傲慢で愚かな奴隷だった。
臆面もなく、自分を讃え、自分を愛していた。
男は贅沢で、スケベで、不快で、欲張りだった。
あれは奴隷の奴隷だった。溝の水だった。
掌を合わせて命乞いする殉教者。ニタニタ笑う首切り役人。
血の臭いと味のする祭り。
権力に毒された締まりのない独裁者の身体
鞭を愛する民衆。
オレらのものと似たかよったかの宗教が山ほどあって、
結局どれも、昇天を最終目的としていた。そして、
気難しがり屋が布団選びをするように、
苦行を重ねることを、自慰のように楽しんでいた。
口が達者な人間は、その才に酔って、
出過ぎた真似をしでかし、自ら招いた禍の中で、
気が狂ったように神にこう叫んでいた。
「友よ! 師よ! 呪ってやる!」
いくらかマシなヤツは、勇気を出して『錯乱』を愛した。
そして『運命』によって囲まれた大きな群れの中から、
酒や麻薬を使って、錯乱状態で逃げ出した。
———これがこの星の報告書のすべてだ。
Ⅵ
ああ、そうなのか。旅で学ぶことは、そんな苦いことばかりなのか。
世界は単調で小さい。
昨日も今日も明日も、オレらにオレらのコピーを見せてくれるだけなのか。
つまり旅は、退屈と言う砂漠の中の恐怖のオアシスなのか。
旅立つべきか留まるべきか、悩んでいるなら、留まった方がよさそうだ。
しかし旅立ちたいと言うなら、止はしない。
旅とは、のたうち、あるいは隠れながら、
警戒心の強い『時間』を誤魔化そうと走り続けることだ。
走り続けても、『時間』と言う投網つかいから逃れることはできない。
疾走する乗り物に乗ったとしても無駄だ。
その一方で、揺り籠から出ないまま、
『時間』に早々にケリをつけた幸運なヤツもいる。
いずれにしても、必ず『時間』がオレらの背骨に足をかけるのは間違いない。
その時、オレらは希望を持ってこう叫ぶことができる筈だ。
「さあ行こう。大航海時代に東の異国に旅立ったあの冒険家のように、
目を見開き、髪を海風になびかせて、
ウキウキしながら、
『闇』の海へと船を漕ぎ出そう。
向こうの方から、こう歌いかけてくる声が聞こえるか?
「こっちに来て、おいしい※2ロートスの実を召し上がれ。
食べたいっておっしゃっていたではないですか?
ここでしか採れない果実ですよ。
そして永遠に続く午後の、
気持ちのいい昼寝を堪能しませんか?」
この聞き覚えのある声に、歌う幽霊の正体が分かったか?
※3プラデースがあっちから手招きしているぞ。そして、
「身も心もお楽になるため、あなたの※4エレクトラのもとへ泳いでいらっしゃい」と、
その膝にかつて口づけしたことのある女が呼んでいる。」
Ⅶ
『死』よ、老いた船長よ。いよいよその時だ! 錨を上げよう!
この国にはもううんざりした。『死』よ、さあ船を出そう!
空と海とがインクのように真っ黒だとしても、
オレたちの心は輝きに満ちている!
『死』よ、お前の毒をオレらに注ぎ込んで、力を与えてくれ!
この世の炎はオレらの脳を焼き尽くした。
もう地獄でも天国でも構わない! 深淵の奥底へと飛び込み、
『未知』に新しいものを見つけようではないか!
※1フランスの批判家、紀行作家、編集者。
※2記憶を消してしまう果実。『オデュセイア』に出てくる。
※3実父を殺されたオレステーヌの親友。オレステーヌの敵討ちを手伝った。
※4オレステーヌの姉。オレステーヌを励まし復讐を実現させる。プラデースの妻となった。