悪(ワル)の華

ボードレールは、人間を『退屈』に住む『悪』だと思っていたようです。『悪』を詠えば、人間の本質に迫れました。 『悪』はまた、衝動的で扇動的で曖昧でした。 衝動的で扇動的で曖昧なものは、おもしろおかしく好き勝手に扱えました。 『悪』は、『滑稽』にも『美』にも『神』にさえなれました。 こうして人間は、『滑稽』や『美』や『神』に変えられました。 ボードレールのやったことは、それだけのことです。では、ボードレールの言葉遊びに浸りましょう。文中、極めて不道徳で不適切な単語や表現が使用されています。予めご了承ください。

126  旅   ※1マクシム・デュ・カンに

          Ⅰ

子供はマンガや世界地図が大好きだ。

あたかも世界を飲み込んだ気持ちで見入っている。

世界は何てデカいのだろうと想像している。そして目を上げ、

記憶にある世界は何てちっぽけだったのだろうと、思い出す!

 

人は、生れ落ちたからには旅をする。

頭の中は熱い思いでいっぱいだ。

胸の中は、不安と呪われた希望で張り裂けそうだ。しかしとにかく、

波のリズムに乗って、無限の欲望を有限の海に浮かばせながら旅立つのだ。

 

ある者は惨めな祖国を捨てた。

またある者は故郷の恐怖から逃れた。

そしてまた別の者は、

悪い女の瞳の誘惑を避けようとした。そうなのだ、こうやって旅を進めたのだ。

 

夜空を羅針盤にして進んだのだ。しかしそれが仇となった。

結局、大空に飲み込まれてしまい、

方向を見失い、氷に噛みつかれ、太陽に焼かれた。

そして、口づけの痕は、ゆっくりと消えていった。

 

本物の旅人はこんなバカな旅はしない。

ただ旅立つことそのものに意義があると思っている。

心は風船のように軽く、目的など抱いていない。

そして、いつもいつもこう口にしている。「前に進もう、もっと前に!」

 

ヤツらの欲望は雲の形をしている。変幻自在だ。変わり続ける。

そして夢見るものはただ一つ、本能に寄り添う快楽だけだ。

まだ誰も味わったことのない快楽。

誰もその名前を知らない快楽。それが唯一の目的なのだ。

 

           Ⅱ

よくよく考えてみたら、オレらはコマやボールが、

回ったり跳ねたりするのと、何も違いはしない。

寝ている時だって『好奇心』に苦しめられ変な夢を見る。

サディストの天使が、太陽を鞭打っているようだ。

 

人は、期待を抱きながら休息を求める。

ただそのために、狂ったように駆けずり回らなければならない。

目的地は動き回る。だから、どこにも無いと言えるし、

どこにでも転がっているとも言える。

 

オレらは、ユートピアを求める三本マストの帆船だ。

甲板(かんぱん)に声が響き渡る。「しっかり見張っていろ!」

見張り台から猛り狂ったような歓声が上がった。「愛が見えた……。栄光も……、幸福も……!」

見張りが口にした『愛』『栄光』『幸福』の島々は、黄金(エルドラ)郷(ド)だ。

 

早速、派手な酒盛りが始まった。

しかし朝日の輝きに見えてきたものは、暗礁だった。

だめだ! 近づくな! そっちは危ない! 

誰かが叫んだ。

 

伝説の国を夢見た哀れな男どもよ! 

アメリカをでっち上げた船乗りよ、泥酔した水夫たちよ!

蜃気楼がお前たちを絶望へと引きずり込もうとしているぞ。

身体をしっかり鎖に繋げろ! いや、いっそのこと海に飛び込め!

 

旅する人は、ぬかるみに足を捕われながら、

空を見上げて、輝く楽園を夢見ているだけなのだ。

魔法にかかったその眼は、あちこちに楽園を見つける。

しかしそこには、薄汚いボロ屋が並んでいるだけだ。

 

        Ⅱ

旅してきた者よ! その海のようなお前らの眼の中に、

オレは麗しい物語を読み取った。出来る事なら、

もっと見せてくれ、お前らの豪奢な記憶を!

星のようにきらびやかな宝石の数々を!

 

オレらは日常と言う牢獄で味わっている退屈から逃げたいのだ!

それも、今すぐここから旅立ちたい。そして、

キャンバスのように真っ白で張り詰めたこの心に、お前らの思い出の地平線を額縁にして、

満足できる夢を思いっきり描きたいのだ。

 

さあ教えてくれ。いったい何を見て来たのだ!

 

       Ⅲ

星を見たぜ。

波も見た。砂もだ。

思いもかけなかった混乱にも遭遇した。

しかし、あんたと同じように退屈だった。

 

紫色に染まった海の上の太陽を見た。

賑やかな都会に沈む夕陽も見た。

それらにこころ焦がされ、

空中に吸い込まれそうな思いもした。

 

繁華な都市と広大な景色も見たが、

雲が偶然に描き出す空の景色には敵わないことが分かった。

空の景色に、次々と好奇心が湧いた。だが、

かえって欲望を抑えられなくなった。

 

———好奇心が欲望を育てたのだ。

欲望は好奇心を養分にしてきた老木なのだ。

樹皮が厚く硬くなるほど、

末端の枝々は太陽に近づこうとした。

 

欲望よ、お前はいったいどこまで大きく成長したいのだ?

かましい奴め! ———そう言いながらもオレは、

何枚もの欲望の樹のスケッチを描き集めた。

手の届かないものは、無性にきれいに見えたからな。

 

それからオレが見たものは、

象牙の偶像。

光り輝く宝石を嵌め込んだ玉座

その豪華さは、大富豪が腰を抜かすような代物だった。

 

もっと見たぞ。目を酔わせる様々な衣装。

歯と爪に色を塗った女たち。

蛇をまとわり付かせた大道芸人たち。

まあ、そんなところだ。

 

       Ⅳ

もっと見ただろう? ほかに何を見た?

 

       Ⅴ

以上だ。いちいち覚えていねぇよ! 

ああそうだ、大事なことを言い忘れるところだった。

そう言やぁあ、あちこちで今も昔も変わらない、

罪の茶番劇をいやと言うほど見て来た。

 

女は卑しく傲慢で愚かな奴隷だった。

臆面もなく、自分を讃え、自分を愛していた。

男は贅沢で、スケベで、不快で、欲張りだった。

あれは奴隷の奴隷だった。溝の水だった。

 

掌を合わせて命乞いする殉教者。ニタニタ笑う首切り役人。

血の臭いと味のする祭り。

権力に毒された締まりのない独裁者の身体

鞭を愛する民衆。

 

オレらのものと似たかよったかの宗教が山ほどあって、

結局どれも、昇天を最終目的としていた。そして、

気難しがり屋が布団選びをするように、

苦行を重ねることを、自慰のように楽しんでいた。

 

口が達者な人間は、その才に酔って、

出過ぎた真似をしでかし、自ら招いた禍の中で、

気が狂ったように神にこう叫んでいた。

「友よ! 師よ! 呪ってやる!」

 

いくらかマシなヤツは、勇気を出して『錯乱』を愛した。

そして『運命』によって囲まれた大きな群れの中から、

酒や麻薬を使って、錯乱状態で逃げ出した。

———これがこの星の報告書のすべてだ。

 

        Ⅵ

ああ、そうなのか。旅で学ぶことは、そんな苦いことばかりなのか。

世界は単調で小さい。

昨日も今日も明日も、オレらにオレらのコピーを見せてくれるだけなのか。

つまり旅は、退屈と言う砂漠の中の恐怖のオアシスなのか。

 

旅立つべきか留まるべきか、悩んでいるなら、留まった方がよさそうだ。

しかし旅立ちたいと言うなら、止はしない。

旅とは、のたうち、あるいは隠れながら、

警戒心の強い『時間』を誤魔化そうと走り続けることだ。

 

走り続けても、『時間』と言う投網つかいから逃れることはできない。

疾走する乗り物に乗ったとしても無駄だ。

その一方で、揺り籠から出ないまま、

『時間』に早々にケリをつけた幸運なヤツもいる。

 

いずれにしても、必ず『時間』がオレらの背骨に足をかけるのは間違いない。

その時、オレらは希望を持ってこう叫ぶことができる筈だ。

「さあ行こう。大航海時代に東の異国に旅立ったあの冒険家のように、

目を見開き、髪を海風になびかせて、

 

ウキウキしながら、

『闇』の海へと船を漕ぎ出そう。

向こうの方から、こう歌いかけてくる声が聞こえるか?

「こっちに来て、おいしい※2ロートスの実を召し上がれ。

 

食べたいっておっしゃっていたではないですか?

ここでしか採れない果実ですよ。

そして永遠に続く午後の、

気持ちのいい昼寝を堪能しませんか?」

 

この聞き覚えのある声に、歌う幽霊の正体が分かったか?

※3プラデースがあっちから手招きしているぞ。そして、

「身も心もお楽になるため、あなたの※4エレクトラのもとへ泳いでいらっしゃい」と、

その膝にかつて口づけしたことのある女が呼んでいる。」

 

         Ⅶ

『死』よ、老いた船長よ。いよいよその時だ! 錨を上げよう!

この国にはもううんざりした。『死』よ、さあ船を出そう!

空と海とがインクのように真っ黒だとしても、

オレたちの心は輝きに満ちている!

 

『死』よ、お前の毒をオレらに注ぎ込んで、力を与えてくれ!

この世の炎はオレらの脳を焼き尽くした。

もう地獄でも天国でも構わない! 深淵の奥底へと飛び込み、

『未知』に新しいものを見つけようではないか!

 

※1フランスの批判家、紀行作家、編集者。

※2記憶を消してしまう果実。『オデュセイア』に出てくる。

※3実父を殺されたオレステーヌの親友。オレステーヌの敵討ちを手伝った。

※4オレステーヌの姉。オレステーヌを励まし復讐を実現させる。プラデースの妻となった。